
私が〈春〉の謎解きを始めたのは1991年のことです。
その時書いた原稿を第一世代だとすると、現在の〈春と誕生〉は第五世代ということになります。
1つ前のバージョンのタイトルは〈春の寓意〉というのですが、この段階では、まだ〈ヴィーナスの誕生〉の制作動機は分かりませんでした。
今回は〈春の寓意〉のプロローグをアップすることにします。結構長いです(^_^;)
例によって、AIによる感想も、コメント欄にあげておきます。
〈春の寓意〉プロローグ
推理小説というお馴染みのジャンルがある。ファンでなくとも名探偵や好敵手の名前が即座に浮かぶ、という方はきっと大勢おられるに違いない。そこから連想される言葉にも、トリック、暗号、アリバイ、どんでん返し等々、独特なものが数多くある。ところで、作家や主人公の人気や知名度は別として、作品そのものの面白さは、物語を構成する様々な要素のうちいったい何によって決まるのだろう。
もちろん数々の側面から成り立つ小説を、1つの観点から評価することなど無意味だと承知してはいるが、あえて挙げるとすれば、犯人の「動機」が作品の善し悪しに結びつく重要な部分ではないかと私は考えている。
なぜその事件は起こったのか。人間の内面にこそ私たちの興味を喚起する最大の要因があり、トリックや暗号などは所詮小手先の技術に過ぎない。
あらかじめ読者が得心できる動機が用意されていて、にもかかわらず巧妙なカムフラージュによって別の方向へと導かれ、なかなか真実が姿を現さない。間違った動機が示された段階で一旦事件が決着し、なんとなく釈然としないものが残った後、突如として新たな動機が浮かび上がり、それによって事件の本質が表面化して全てが一気に解決する。最後まで読み切った時に胸のつかえがスーと取れるような作品であれば、読者の期待を裏切らないのではないだろうか。
推理小説の場合、まず私たちの前に複数の証拠が提示される。もちろんこの段階ではガセネタが含まれているため、正しい事実を選別する作業(分析)が話の中心となる。そして確かな証拠が出そろった後、それらを総合することができてはじめて事件は解決する。
たとえば、正しく分析された5つの事実があったとして、はじめの動機ではそのうちの4つが説明できても残る1つが説明不能の場合、私たちは直感的にスッキリしないと感じるのだろう。最終的には読者が得心できる別の動機が見つかり、5つ全てに納得のいく説明が加えられた時、胸のつかえが一掃されるのである。
ミステリーの解明に不可欠な「分析と総合」が重要視されるのは、なにもフィクションだけに限った話ではない。現実に起こった事件はもちろんのこと、考古学(歴史)や科学を初めとする学問の分野にも当てはまるに違いない。たとえ些細な事柄にせよ明白な事実が見つかった時、これまでの仮説や定説と辻褄が合わないからといって、そこから目を逸らせていたのでは決して真実は浮かび上がってこない。絵画の謎解きとて例外ではない。
イタリア・ルネサンスを代表する名画に、ボッティチェリの〈ヴィナスの誕生〉と〈春〉がある。2枚の絵は今ではフィレンツェのウッフィッツィ美術館の同じ部屋に飾られており、その前から人影が絶えることはない。さて、〈誕生〉が解説の必要性を感じさせない明快な絵であるのに対し、〈春〉は美術史上最も難解な、謎に満ちた作品としてこれまで理解され続けてきた。しかし本当にそうなのだろうか。
私たちが美術書や画集などで過去の名画と接する時、そこに解説を書いているのは大抵が歴史家(美術史家)である。言い換えれば、史家の価値観でこの絵を読み解こうとしたから難解なのであって、実際のところは彼らが画家の意図を理解していないだけの話ではないのか。
〈春〉という絵の特徴の一つは、同じ画面にギリシア・ローマ神話の神々が9人も勢揃いしているところにある。彼ら9人がある物語の配役とピタリと一致しており、その題名がつけられていたならば、難解さなど何もなかったに違いない。ところが、該当するような話はどこを探しても見あたらず、さらには〈春〉というなにやら意味深長なタイトルが与えられている。美術史家のこれまでの見解の多くは、「失われたテキストに基づいて描かれた」という消極的なもので、題名に関してもはっきりとした根拠が示されたことはない。
ここで1つ問題を提起することにしよう。
〈ヴィナスの誕生〉と〈春〉には同じ神様が2人、繰り返し描かれている。1人は画面中央のヴィナスで、もう1人は画面の左右に描かれたゼピュロス(西風)である。2人の女神については歴史家は数多くの考察を加えている。ところがゼピュロスの方はどうだろう。〈誕生〉では健康的な肌色で表現されている西風が、〈春〉では一転して蒼白に彩色されている。この決定的な違いを目にしながら、史家はなぜその理由を黙して語ろうとはしないのだろう。
ボッティチェリが自らの絵に、謎かけのためのガセネタを盛り込むなど到底考えられない。彼の他の作品を眺めても、画家が見る者を欺くために仕掛けを弄したとは思えない。したがって、描かれた人物やその仕種、持ち物といったものの中に、無視して良い部分など1つもないはずである。
私たちが〈春〉の解説を読んでも何か釈然としない理由はまさにこの部分にある。なぜ歴史家は明白な事実から目を逸らす(蒼白のゼピュロスに解説を与えようとしない)のか。結局のところ、彼らの動機捜しにおいては、総合に至るどころか分析すら不十分なのである。
もう1つ指摘しておきたいことがある。それは歴史家と画家ではものの見方・捉え方が違うという点だ。
私たちが物事に解説を求める時、その分野の専門家に依頼しようと思うのは道理である。スポーツならスポーツ選手、科学の分野なら科学者に。ところが、芸術の世界はちょっと違っているようだ。時には例外があるかもしれないが、美術史家や音楽評論家の中に、自らが画家や音楽家という人はまずいまい。もちろん自身の絵や音楽で食べていけるのなら、わざわざ他人の作品の解説などする必要もない訳で、そのこと自体は仕方のないことかもしれない。しかし、絵を描かない人にどうして絵描きが考えていることが分かるというのだろう。
〈春〉の中央上部に目隠しをされたエロス(キューピッド)が描かれている。美術史家はこれを、「矢によって神々を恋の虜にする悪戯のため、罰としてヴィナス(母)に目隠しされた」と解説する。しかし絵描きに聞けば、目隠しはエロスが「見えない神」であることを表現するための小道具である。といたって単純明快だ。どちらを信じるかは読者の勝手だが、少なくとも史家と画家ではこれ程考え方が違うことは分かっていただけると思う。
ここまでの話を整理すると次のようになるだろう。
・ 美術史家による〈春〉の解説は、ボッティチェリの描いた明らかな事実のうち、何ヵ所かを無視して組み立てられている。
・ 解説を加えた部分(たとえばエロスの目隠し)に関しても、画家の考え方とは異なる、歴史家独自の価値観に基づいた解釈を与えている。
はっきり言って、これでは推理小説なら出来損ないである。
では、〈春〉を解き明かすにはどうすればよいのだろう。詳しくは本文に譲るとして、ここにはヒントのみ書いておくことにしよう。
分析の結果、5つの証拠が画家によって明示されている。そのうちの1つは言葉で、残りの4つは9人の登場人物中4人を特徴づけることで表現されている。したがって、誰の目にも明らかなこの5点を総合することで、〈春〉の制作動機を説明しなければならない。
①蒼白のゼピュロス(西風、画面右端の男性)
ボッティチェリがゼピュロスに用いたこの色は、ズバリ「死」を暗示している。一方、歴史家による〈春〉の解説は「結婚」や「愛」を主題としており、両者が示す内容は正反対と言えるかもしれない。そこで当然のことながら、彼らはこの部分(西風の色)を避けて通ることになるのだが、それでは決して〈春〉の本質に迫ることはできない。もしも絵の制作動機が史家の言うように結婚や別荘の購入だったとしたら、画家が西風にブルーを使うことなど断じて有り得ない。
②右から2人目の女性
彼女が誰なのかが〈春〉を読み解く最大のキーポイントである。これまでの史家の解説では彼女はローマ神話のフロラ(花の女神)またはギリシア神話のクロリス(ニンフ:妖精)とされてきた。そのいずれもが見当違いであることは言うまでもない(正しければ、謎はとっくに解明済みのはずである)。それと併せて、ここでは彼女の口から吐き出される切れ切れの草花と極端に返された右手首に解説を加えなければならない。
③エロス(キューピッド、画面中央上部)の炎の矢
エロスの目隠しについては先に触れたが、彼の特徴はもう一つある。通常エロスの矢の先端は金属(黄金か鉛)のはずだが、そこに画家独自のモチーフである「炎」を描いた理由は何か。さらに、エロスが弓を引き絞り矢を放とうとしている動きから的の存在が暗示されている。はたして〈春〉の中に的は描かれているだろうか。史家は何も教えてくれないが、答えはもちろんYesである。
④ヘルメス(マーキュリー、画面左端の男性)と宝杖
ヘルメスの持つ宝杖(ケリュケイオン:カドケウス)には2匹の蛇が巻き付いているのが一般的だが、画家は蛇ではなく羽の生えた竜を描いている。しかも杖の向きが逆さま(蛇または竜の頭部を手にするのが普通)である。さらに、神話におけるヘルメスの主要な役割の1つは死者を冥界へ案内することであり、そのため彼は別名プシュコポムポス(魂の案内人)と呼ばれている。したがってここにも「死」のイメージが存在する。
⑤〈春〉という題名
この絵の最もミステリアスな点はその題名にある。由来の曖昧さから題名そのものを疑問視する歴史家もいるが、西風同様そこに存在する事実から目を逸らせているだけのことである。実は〈春〉というタイトルこそが、画家の意図とは裏腹に巧妙なカムフラージュとなって史家たちを別の方向へと導き、制作後約530年を経た今日まで私たちの目を真実から遠ざけてきた原因に他ならない。たった今、私は絵の中に存在する「死」のイメージを指摘した。このことと題名はどのように結びつくのか。この問題を解決することができてはじめて、〈春〉の制作動機が解明するのである。
物事の本質が多くの場合そうであるように、〈春〉の物語も謎が解ければ「なんだ、そんなに簡単な話だったのか」と読者は驚かれるに違いない。美術史家が「失われた」と考えていた絵のテキストは、実は神話好きの方なら誰でも知っているポピュラーな話で、その寓話を原型とした物語は、今日ではディズニー映画にもなって私たちを楽しませてくれている。
〈春〉という題名には画家の願いが込められている。絵を前にしてそこに注ぎ込まれた彼の精力を想像すると、いったいどのような「動機」があればこれほどのパワーを生み出すことが可能なのか、という素朴な疑問が湧き起こってくる。史家の言うパトロンの結婚や別荘購入程度の理由では到底納得することなどできはしない。
「分析と総合」のプロセスを経て制作動機が解明し、この絵を〈春〉と名付けた画家の真意が明らかになった時、釈然としなかった部分は一掃され、全身全霊をかたむけて〈春〉を描いたボッティチェリの思いの深さに、きっと読者は得心なさるに違いない。