ジュリアーノ・デ・メディチ

         
ジュリアーノ・デ・メディチ(Giuliano de' Medici 1453−1478)
ロレンツォ・イル・マニフィコの実弟で、騎馬戦(ジョストラ)と(シモネッタとの)恋愛とにおいて有名な美青年(矢代氏)。


ボッティチェリは彼の肖像画を3枚も描いています(図版左から、ベルリン美術館、ワシントン・ナショナルギャラリー、ベルガモ・アカデミア・カッラーラの順)。
「春」のヘルメスはジュリアーノがモデルだとする説も、いまだに根強いようです。
きっと2人は仲が良かったに違いありません。


そのジュリアーノが、パッツィ家の陰謀によって突然暗殺されます(当時24〜25歳)。
その日、1478年4月26日(ユリウス暦であることに注意)は復活祭であると同時に、シモネッタの命日(日本式で言えば3回忌)でした。
画家の受けたショックは計りしれなかった筈です。


私はWhen「春」の制作時期(縦糸①)を1476年5月〜1478年4月としています。このことと先に述べた制作期間(1年半〜2年近く)は矛盾しません。むしろピッタリと言って良いでしょう。
ただし、正直に言えば、制作期間の方にはあまり根拠がありません。現代の画家(田口安男氏)は、それを1年前後と指摘していますが、古代以来初めてチャレンジする、ギリシアローマ神話をテキストとした絵の構図が、そう簡単に煮詰まったとは思えませんし、現代と違ってルネサンス期(電気もない)に活躍した画家の仕事のペースも想像の域を出ません。
ボッティチェリが仕事の速い画家だったことは、よく知られていますが、それはあくまで作業スピードの話で、何かにつまずき悩みはじめれば、時は速やかに経過したことでしょう。
実際のところ、壁画の制作を途中で投げ出した、ピサのドゥオーモのような例もあります。


唯一、憶測できるのは〆切日です(そんなものがあったとしての話ですが)。
ロレンツォは画家に、何時までに「春」を完成させよと命じたのでしょうか。
私には、それがシモネッタの命日(4月26日)だったように思えてならないのです。
つまり、「春」の完成披露とパッツィ事件の間には、ごく僅かの時間しかなかったと…


事件で九死に一生を得たロレンツォは、手厳しい報復を開始します。陰謀の首謀者たちはことごとく捉えられ、市庁舎他の高窓から吊されました。
そして、この陰惨な光景を、我がボッティチェリが壁画として描き留めたのです。
この絵はロレンツォの死後(1492年没)取り壊されたので(1494年)、今となってはどのようなものだったのか知る術はありません。
矢代氏によれば、ボッティチェリは壁画の制作にあたり、アンドレア・デル・カスターニョ(site本編keywords参照)の技法を熱心に研究し、その結果、彼の画風は一時強い写実主義に傾いたようです。
その痕跡を留める作品が、今もオンニサンティ聖堂にある「書斎の聖アウグスティヌス」です。
「春」と「アウグスティヌス」の様式上の違いはこのことから説明することができます(横糸②の解答)。
加えて、絞首刑の壁画(1478年)〜アウグスティヌス(1480年)の間、画家がリアリズムに傾いていたのだとすれば、その時期に「春」に手が加えられたとは(様式上の理由から)考えられません(横糸④の解答)。


ジュリアーノの死は、完成したばかりの絵に多大な影響を与えました。
ロレンツォは、「春」を不吉な絵〜不幸をよぶ絵と考え、これをパラッツォ・メディチとは目と鼻の先にあったロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの邸に移します。
以降「春」の所有者となったピエルフランチェスコ(歴史家の多くが絵の注文主だと考えている)ですが、この時、彼はまだ僅か15歳だったのです(横糸⑤の解答)。


ここ数日寒さも和らいで、私の周りの気の早い桜は既に開花モードです。
今年もまた、もうすぐ4月26日(現在のグレゴリオ暦では5月9日)が巡ってきます。シモネッタの死から数えて533年、ジュリアーノの死から531年になります。
出来れば、2人の命日(〆切日)に合わせて、「春」の謎解きを終了したいと考えています。
ボッティチェリの没後500年(2010年5月17日)を期限とした、以前の予告(12/18)を大幅に前倒しします。
読者の皆さんの協力を、お願いする次第です。
(snow)