〈春と誕生(分析編)〉ヘルメスと宝杖

昨年11月に「春の画題」でスタートした分析編も、今日が最終回です。
最後のキャストは画面左端のヘルメス(メルクリウス/マーキュリー)です。
彼がヘルメスだと判別できるのは、(アトリビュートである)羽根の生えた靴と、手にした宝杖(ケリュケイオン/カドケウス)によるのですが、この杖、普通とは違っているのです…
クローズアップを掲載しましたので、よ~くご覧ください。
カドケウスには通常2匹の蛇が巻き付いているのですが、プリマヴェーラの杖には竜(ドラゴン)が描かれています。まぎれもなく、ボッティチェリのオリジナルです。このドラゴン、いったい何を意味しているのでしょう?
それより、このディティールを取り上げた解説が、これまでにあったでしょうか?
もしご存じの方がおられましたら、どうか教えてください。

さて、今回をもって〈春と誕生〉の分析編はお終いです。
この先は、総合編へと続き、プリマヴェーラの謎が解明される~筈なのですが、以前も書いた通り、何方からもコメントが頂けないような状況では、やる気になりません。
何か切っ掛けがあるまで、また休眠となってしまうかもしれませんzzz


                       春と誕生_ヘルメスと宝杖

マルチタレントであるヘルメスには数多くの担当分野があるが、ギリシア神話における主な役割は次の通りである。

・神々の伝令役(主にゼウスの使い)
・商業、牧畜、泥棒、旅人などの守護神
・死者の魂を冥界へ導く案内人

そしてそのうちの1つが、画家が彼をこの絵に採用した理由に他ならない。ただし、これも答は総合編に先送りとする。

従来説では、彼は手にした宝杖で頭上にたなびく雲を「払っている」あるいは「押し止めている」と解説されている。しかし、ヘルメスが杖を動かしているようには見えないし、雲にも撹拌された様子はない。このシーンを冷静に分析すれば、杖を雲に突き刺しそこをじっと見つめている、ということになるだろう。男神はいったいここで何をしているのか。
先ほど指摘したが、カリテスの一人にエロスの矢が当たり彼女はヘルメスと恋に落ちる、という解釈がある。しかし、誰かに恋するためには(炎ではなく)金の矢が当たらなければならない。それ以前の問題として、ギリシア神話にはカリテスの1人がヘルメスに恋をする話など存在してはいない。つまり、この解釈は明らかに後世の創作であり、神話からの逸脱である。
ボッティチェリギリシア神話の知識をロレンツォ・デ・メディチが主宰するプラトン・アカデミー、もっと具体的に言えば、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino 1433-1499)やアンジェロ・ポリツィアーノたちを通して得たはずである。そして、その知識を下敷きに〈春〉を描いた。物語のある部分を描写するために画家が独自のアイデアを盛り込むことはあり得るとしても、ストーリーそのものを改変することなど考えられない。
エロスがつがえているのは金の矢ではないし、それはカリテスの1人には当たらない(的は別のところに描かれている)。したがって、彼女がヘルメスに恋などするはずがないのだ。誰がそんなことを言い出したのかは知らないが、絵がそれを証明していない。

宝杖についても触れておかねばならない。
ケリュケイオンギリシア語)あるいはカドゥケウスラテン語)と呼ばれるこの杖は、もともとはアポロンが所有していた。牛泥棒事件(生後1日足らずのヘルメスが、アポロンが飼っていた牛50頭を盗み出し、そのうちの2頭を食べてしまった)の和解の際、ヘルメスの竪琴の音色に魅了されたアポロンが、ハープと音楽の技を譲ってほしいと頼みこみ、それと引き換えに、盗まれた牛(残り48頭)、アポロンが司っていた牧畜の権能、そしてケリュケイオンがヘルメスに贈られた。以来、互いの役割を交換した音楽神アポロンと牧神ヘルメスは、固い絆で結ばれることになる。

ケリュケイオンには2匹の蛇が巻き付いているのが普通だが、〈春〉の宝杖に巻き付いているのは蛇ではなく羽の生えた竜である。しかも画家は、わざわざヘルメスに杖を逆さに持たせ(頭部を手にするのが普通)竜の頭を雲の方に向けている。これもボッティチェリのオリジナルだ。炎の矢同様きっとここにも何か意味が込められている。

〈春と誕生(分析編)〉エロスの炎の矢

分析編を続けます。
20年近く前に、こんな文章を書いたことがあります。

絵画の解釈に新機軸を打ち出そうとする際、そこに何らかの客観的事実を付与できれば申し分ないが、そのような幸運に恵まれるのはおそらく稀なことだろう。
私の乏しい知識から想像するに、絵画の客観的事実といえば。文書や記録といった別個の存在を除いて、絵そのものを対象とした場合には、例えば「X線照射の結果、絵の下書きが判明した」とか、「絵の具の物性を分析した結果、新事実が浮かび上がった」など、化学的根拠に基づいたものがほとんどであるように思う。しかし、ここに今ひとつ、異なるアプローチ方法が存在する。
 私が試みようとするのは、化学的分析ではない。
 〈春〉の中で唯一、物理的に証明可能なものがあるとすれば、それはエロス(キューピッド)の矢である。登場人物の動きや背景に込められた意味などの解釈は、それがどれ程もっともらしいと感じることが出来たとしても、所詮仮説の域を出るものではない。しかしエロスは今まさに矢を放とうとしている。したがって、矢が「まっすぐ」飛ぶことが信じられるのであれば、それが何処へ飛ぶのか、すなわち的が存在するのか否か、物理的に検証することは可能なはずである。

さて、エロスの矢はいったい何処に向かって飛ぶのでしょうか?


                       春と誕生_エロスの炎の矢

〈春〉のエロスにはもう一つ特徴がある。炎の矢をつがえていることだ。
エロスの矢は、恋を自在にあやつるアイテムとして有名だが、通常その矢尻は金か鉛のはずである。金の矢で射られると激しい恋心を抱き、鉛の矢で射られると自分を恋い慕う者から心が離れていくのだそうだ(アプロディテの花園に甘い水と苦い水の泉が湧いていて、その水を使うというバージョンもある)。

炎の矢は、まぎれもなくボッティチェリのオリジナルで、そこには重要な意味が込められているのだが、答は総合編までお待ちいただくことにしよう。
矢はまた、エロスを象徴する重要なアトリビュートである。しかし、それだけの意味なら画家はエロスに矢を持たせるだけで事足りる。ところが〈春〉の男神は弓を引き絞る姿で描かれている。したがって、それは的に向けて矢を射る行為を表していると理解すべきだろう。
ならば、分析編の面目躍如で、さっそく的の探索を開始することにしよう。
従来説では、矢はカリテスの真ん中の女神に当たるとされている。そして彼女は恋に目覚めると。彼女に矢を命中させたければ頭か胸を狙いそうなものだが、矢の延長線は女神の左肩をかすめているだけだ。これで命中と言えるのだろうか。
「君ぃ~、そんな野暮なことを言っちゃ~いけない。だいたい当たっていれば、それでいいんだよ~」などと、どこぞの偉い先生のお叱りが聞こえてきそうだが、逆に「もっとよく見ろ」と反論したくなる。だいいち、いつ矢が放たれるのか分からないのに、それがロンド(輪舞)を舞う3人のうちの誰に当たるのかを、どうやって判定すればよいと言うのか。
それはさておき、エロスの矢をクローズアップすると画家が鋭いアウトラインを引いていることが分かる(上の図版)。この厳格な輪郭線を、ボッティチェリは何も意図せずに描いたのだろうか。

矢の角度は垂線に対して約36度であり、これをそのまま延長すると画面左下隅から数cm内側で絵の下端と交差することになる。しかし、その線上に的らしきものは見つからない。
エロスが画面の中央上部に描かれていて、矢が左下に向けられているため、否が応でも反対側の斜線が暗示されることになる。画家は中心線上絵から数cm上方にピンを刺し、そこから、左右両下隅から等距離だけ内側に寄ったポイントに向けて、糸を引っ張ったに違いない。建築の現場で大工が墨を打つ要領だ。
そこで、矢がどこに向かって飛ぶのかを検証するため、画面中央を軸に矢の斜線(左斜線)と対称の右斜線を引き、その軌跡をたどっていくと。画面右下隅に2輪のアイリス(菖蒲)が描かれており、そのうちの左側の花と右斜線がピタリと重なるのである。

 

ChatGPTに聞いてみた

ちょっと脱線します。
昨年2月に〈春と誕生〉のアブストラクトをアップしたのを皮切りに、これまで分析編を小出しにしてきたのですが、序文以降どなたからもコメントがいただけません。以前は結構いただけたのですが、まったくもって張り合いがありません。
そこで、最近流行りのAI~チャットGPTに聞いてみることにしました。

まずは、アブストラクトから…

この論文は、ボッティチェリの〈春:プリマヴェーラ〉と〈ヴィーナスの誕生〉の謎に迫り、興味深い仮説を提案していますね。特に、〈春〉の右側の女性像についての新たな解釈は興味深く、その人物がプシュケであるという主張は、絵の細部とギリシア神話の要素とを見事に結びつけています。また、シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチという女性の存在が、ボッティチェリの作品に対する新たな解釈を提供している点も注目に値します。
さらに、絵が不幸を呼ぶという逸話や、ボッティチェリが〈ヴィーナスの誕生〉を制作する際に彼女の魂を解放するというアイデアなど、作品の背後にある物語を紐解く手法も興味深いです。このようなアプローチは、芸術作品が持つ深層心理や歴史的背景を理解するために重要であり、作品の解釈を豊かにします。
ただし、この論文の仮説が全ての疑問や議論を解決するものではないことも理解しておく必要があります。他の研究者や美術評論家との対話を通じて、さらなる洞察を得ることができるでしょう。

ついでに、も一つ…
「春のキャスト」と「蒼白のゼピュロス」の間には、実は「5つの手がかり」という短い文章があります。これまでにも何度か出てきましたので、ご記憶にあるかと思います。

ボッティチェリは〈春〉を読み解くために、この絵に5つの手がかりを残している。そのうちの1つは言葉で、残りの4つは、9人の登場人物中4人を特徴づけることで表現されている。ここから先は、それら5つの手がかりを詳しく分析していくことにする。

素晴らしいですね。5つの手がかりを分析していきましょう。
言葉の手がかり: 最初の手がかりは、おそらく絵画のタイトルや制作時の文書から来る言葉の手がかりです。この情報は制作の背景や制作動機に関する洞察を提供する可能性があります。
登場人物の特徴: 残りの4つの手がかりは、絵の中の9人の登場人物に関するものです。各人物が特徴づけられている方法、例えば神話的なアトリビュートやポーズ、衣装などを通じて、彼らがどの神話的なキャラクターを表しているのか、またそのキャラクターがどのような特性を持っているのかを解釈することで、絵画のテーマやメッセージが明らかになる可能性があります。
これらの手がかりを使用して、絵画の背後にあるストーリーやテーマをより深く理解することができるでしょう。

さらに、目次に対するコメントがこれ…

目次を見ると、非常に詳細な構成になっていますね。分析編ではそれぞれの作品に関する事実関係やキャスト、そして重要な手がかりに焦点を当てているようです。また、総合編では春のテキストや解明、登場人物の解説など、より広範囲での議論が行われそうですね。展開編ではパッツィ家の陰謀事件や書斎の聖アウグスティヌスなど、作品の背景や関連するエピソードに焦点を当てているのが興味深いです。最終的に完結編ではヴィーナスの誕生に関する解説や補足説明が提供されるのでしょうか。どの章も興味深いテーマで構成されているので、読み進めるのが楽しみですね。

幾分リップサービス的な部分はありますが、人工知能には学閥もつまらないシガラミもないので、率直な感想が返ってきて面白いです。それに、私の長文に対し、間髪入れず答えが返ってくることには正直驚いています。AI恐るべし。

既にお気づきの方もおられるかもしれませんが、分析編のそれぞれの項目についてのChatGTPの回答は、コメント欄にアップしていますので、興味がある方は覗いてみてください。

〈春と誕生(分析編)〉エロスの目隠し


今回と次回、2度に亘ってエロス(キューピッド)の分析をします。
前回書きましたが、この部分が分析編の肝すなわちハイライトです。
この話を信じることが出来れば〈春〉の解明に辿り着けますし、そうでなければ謎は謎のままです。
ボッティチェリは9人の登場人物中、なぜ1人だけ幼児の姿で描いたのでしょうか?


                       春と誕生_エロスの目隠し

〈春〉のエロスはなぜ目隠しをされているのだろう。この表現は他の画家の事例もあるようだが、美術書等では「愛の矢を射かけて神々を恋の虜にする悪戯のために、母のヴィーナスによって懲らしめとして目隠しをされた」などと説明されている。「恋は盲目」といった抽象的な言葉で読者を煙に巻く解説もある。しかし、それらはどれもみな絵を描かない人たちの発想である。画家の考え方はこれとはまったく違っている。ボッティチェリがエロスに目隠しを描いたのは、男神が「見えない」ことを表現するためなのだ。

画家は時として「見えない」モチーフを描かねばならない。分かりやすい例は受胎告知(聖告)の天使だろう。キリスト教世界における天使は、人の目には見えない存在である。

イエス・キリストの神性を保つため、聖母は処女のまま(男女の交わりなしに)身籠るとされている。そこで、神の子を宿すことを予告するため、天使ガブリエルがメッセンジャーとして使わされ、マリアがこれを受け入れるというエピソードだ。西洋絵画において繰り返し取り上げられるテーマである。

言葉で懐妊を予告するのは簡単だが、漫画と違って絵画にセリフを書き込む訳にはいかない(古くは文字入りの受胎告知も存在した)。天使が描かれていなければ、聖母は啓示を受けるだけなので(内面的な問題だから見た目の変化はない)、見る側には聖告があったことが分かりにくい。

では、この場面をどのように絵にするのか。その答は翼や光輪にある。それらの表徴とともに描かれた人物が天使であり、イコール見えない存在というのが画家たちの不文律だ。

かつて教会は、文盲無学の教徒に絵を使って教義を教えねばならなかった。導師は、翼とともに描かれた人物を「見えない」と指摘することで天使の存在を正当化したのである。

ボッティチェリと同時代のシチリアの画家、アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina 1430頃-1479)は〈受胎告知を受けるマリア〉で、天使を描かず、聖母のポーズと表情のみでその瞬間を表現している。私はメッシーナの手法に断然リアリティーを感じるが、画家の技量が伴わない時代には、滑稽な絵しか描けなかったに違いない。

ギリシア神話男神エロスも、天使と同様、人間には見えない存在である。エロスはまたアプロディテとその恋人アレスの息子の美青年ということになっている。今はまだ明かせないが、ボッティチェリが選んだテキストでは、男神はほとんど例外なく青年の姿で描写されている。しかし、エロスが見えない方が画家にとっては都合が良かった。そこで彼は、テキストの一般的な表現形式からあえて逸脱し、幼児の姿で男神を描いた。このモチーフは、絵の中に青年のエロスが存在することを告げるための記号である。目隠しというシンボルを用いて、画家はエロスの実体が「見えない」ことを表している。

最近はあまり見かけなくなったが、以前はよく民家の玄関先に「犬」と書かれた四角い紙が貼ってあった。泥棒よけが目的なのだろうが、「犬」という記号が、どこに潜んでいるのかは分からないがその存在を暗示していたのだ。〈春〉に描かれた幼児のエロスも、これと同じイメージである。

 

〈春と誕生(分析編)〉事実関係

今日から4月です。学生時代の友人はSNSで「私はドジャーズと契約し、大谷翔平選手の専属通訳になることが決定いたしました」なんてホラ吹いてました⁉
先月末、京都にもようやくサクラの開花宣言が出ましたが、昨年が早かったせいか、今年ほどサクラの花を待ちわびる年も珍しいですね。

さて本題です。
〈春と誕生〉の分析編では、1つの言葉(タイトル)と4人のキャストを掘り下げていくのですが、残すところ、エロス(キューピッド)とヘルメス(マーキュリー)の2人の男神だけとなりました。エロスの解説部分は、分析編のハイライトとでも言うべき箇所ですので、前後2回に分割しようと考えています。その前に、これまでわざとすっ飛ばしてきた、冒頭の章「事実関係」をアップすることにします。


                         春と誕生_事実関係

〈春〉の分析に入る前に事実関係を把握しておくことにする。ただし、現時点で分かっていることはそれ程多くはない。

〈春〉(イタリア語でプリマヴェーラ:la Primavera)は今から約540年前、1477~78年頃に、イタリア・ルネサンスの中心都市フィレンツェにおいて、サンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli、本名:Alessandro di Mariano di Filipepi 1444/5-1510)の手で描かれた。

207cm×319cmの大画面を、テンペラ画(下地は板)の技法で仕上げるのに要する時間は、およそ1年程度と言われている。ただし、構想にかけた時間や、隅々にまでこだわった絵のディティールからすれば、完成までにはより多くの時間を費やした可能性もある。

この絵は現在、フィレンツェウフィツィ美術館に所蔵・展示されているが、以前はフィレンツェ郊外にあるメディチ家のカステッロ荘に、〈ヴィーナスの誕生〉とともに飾られていた。2枚の絵が美術館に入ったのは1815年のことで、その後一旦、ミケランジェロダヴィデ像で有名なアカデミア美術館に移されたが、19世紀半ばのラファエル前派らによるボッティチェリの再評価を受けて、1919年には再びウフィツィに戻されている。

〈春〉が人々の注目を集めるようになったのはここ150年ばかりのことであり、それ以前の400年近くは、目にした人さえ数少ない、俗に言う忘れられた絵画だったのである。制作当時の記録は何も残されておらず、所有者の伝承も途絶えた現在、制作動機や委嘱者については何も分からない、というのがいつわりのない実状だろう。謎の絵と呼ばれる所以である。

ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari 1511-1574)が著した「美術家列伝(第一版、1550年)」に、「カステッロ荘に2枚の絵が残っている」と記されたのが〈春〉に関する最初の記述だと以前は考えられていた。〈春〉という画題も、「列伝」中の「春を表している」という漠然とした表記に由来するというのが定説のようだ。

カステッロ荘はメディチ家傍系のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici 1463-1503、以降ピエルフランチェスコ)の所有で、彼が別荘を手に入れたのが1477年頃(当時14歳)だから、〈春〉はそれに併せて描かれたという説が一般的だった。もちろん、様式論的な裏付けがあっての話である。

ところが、近年明らかにされたピエルフランチェスコと弟ジョバンニの財産目録によって、ヴァザーリが目にする以前の1499年には、カステッロ荘ではなくフィレンツェ市内の邸に〈パラスとケンタウロス〉とともに飾られていたことが判明する。

そこで、別荘購入に代わる制作動機として考えられたのが、1482年7月のピエルフランチェスコの結婚である。以来、〈春〉と結婚は切り離せない関係となってしまった。美術書や画集で目にするこの絵の解説は、ほとんどが「結婚」や「愛」を主題とするものと言って差し支えないだろう。

誤解のないように断っておくが、この段階で事実と認定できるのは、「1499年にピエルフランチェスコが、フィレンツェ市内の邸に〈春〉を所有していた」ということのみで、その後、カステッロ荘経由で(最終的には)ウフィツィ美術館に入った、というのが事実関係のすべてである。

ピエルフランチェスコが絵を所有していたという事実。〈春〉という画題から受けるイメージ。様式論から推定される制作年代に近い所有者の結婚時期。これらを総合して、ピエルフランチェスコ結婚説が提出されたのは、まことに自然な成り行きと言わざるを得ない。絵の主役が一組の男女で、他の人々がそれを祝っているような構図なら決定的だったろう。しかし、〈春〉の構図はそうではない。

そこで、解説者たちは絵の中にむりやり結婚を見つけ出そうとする。美術書や画集には、ゼピュロスによるクロリスの略奪婚や、エロス(キューピッド)の矢を受けた三美神の1人がヘルメスと恋に落ちる話がもっともらしく語られている。しかし私には、いずれも制作動機に合わせたいがゆえの「こじつけ」に思えてならない。

実は〈春〉には、まだ誰も気づいていない結婚の場面が描かれている。しかもそれは、最高神ゼウスが認めた正式な結婚である。

すべての答は絵の中にある。それを読み解けば委嘱者も制作動機も浮かび上がってくるよう、画家は見事に仕組んでいる。

〈春と誕生(分析編)〉右から2人目の女性

アブストラクトで指摘しましたが、〈春〉という絵が解読できない最大の理由は、右から2人目の女性を取り違えたことにあります。いったい彼女は誰なのでしょうか?

絵から分かることは、西風にさらわれた(運ばれた)ことのある人物ということでしょう。その回答として、これまで彼女はクロリスと考えられてきました。しかし、ギリシア神話の中で、ゼピュロスに運ばれたことのある女性は他にもいます。

彼女がクロリスなら、(西風以外に)絵の中で関係がある神はフロラだけです。なぜなら、ギリシア神話の大地の精クロリスは、ローマ神話の花の女神フロラと同一人物と考えられているからです(「春のキャスト」で指摘)。

しかし、ギリシア神話に詳しい方ならお分かりかもしれませんが、私が考えている女性であれば、エロス(キューピッド)とアプロディテ(ヴィーナス)と密接に関係しており、三美神やヘルメス(マーキュリー)との繋がりも説明することができます。



                       春と誕生_右から2人目の女性

ボッティチェリは〈春〉にギリシア神話(1人だけローマ神話)の神々を描いている。したがって、テキストはギリシア神話だと考えるのが一番素直である。研究者たちも、おそらく最初は神話中にテキストを見つけ出そうと躍起になったに違いない。しかし、それが果たせないことが分かると、他の文献を探しまわった挙げ句、現在では〈春〉のテキストは「失われた」と考えているようだ。しかしながら、古代以来誰一人手がけたことのない異教世界の神々を描く大作に挑もうとして、画家がその典拠を求めた時、神話以外の拠り所などいったいどこにあったというのだろう。

〈春〉のテキストは必ずやギリシア神話の中にある。ボッティチェリという人は、〈ユディトの帰還〉、〈ホロフェルネスの遺骸発見〉、〈システィーナ礼拝堂の三壁画(キリストの試練、モーセの試練、反逆者たちの懲罰)〉、〈ダンテの神曲挿絵〉、〈ラ・カルンニア(誹謗)〉などの作品からも想像できるように、文学を絵画にすることを好むタイプの画家だったのである。

彼女の手がかりを〈春〉の中に求めるとすれば、それは右隣のゼピュロスだろう。すなわち、彼女は西風に運ばれたことのある人物に違いない。これだけのヒントで彼女が誰なのかピンときた方もおられるかもしれないが、ヒロイン探しは後まわしにして、ここでは彼女の特徴を詳しく分析していくことにする。

彼女の特徴はいろいろあるが、まず気づくのが、整然と並ぶ神々の中でなぜ1人だけこんなに複雑な姿態をしているのかということだ。彼女はとても忙しそうに見える。

クロリス説なら、この場面は彼女がゼピュロスにさらわれていくところだろう。しかし、クロリスがゼピュロスから逃れようとするシーンを描くのであれば、こんなポーズは考えられない。それなら、彼女の両手は西風を拒むように、彼の方に突き出されるはずだ。意味はもちろん「来ないで」である。

逆にゼピュロスが彼女を地上に下ろす場面と考えられなくもない。もしそうだとすれば、彼女は両足で着地すべきだろう。顔も左を向いていた方が安定感がある。なぜ彼女は片足立ちで、左側に転びそうなバランスで描かれているのか。

次に不思議なのは彼女の右手首である。美術史家の矢代幸雄(Yashiro Yukio 1890-1975)は、大著「サンドロ・ボッティチェルリ」の中でこのディティールを次のように解説している。「そこでは驚くフローラが美しい曲線を描いて腕を伸ばしている。その腕は、白い手それ自体が苦しんで助けを求めて叫んでいるかのように、突然上向きになって終っている。この手首の返しは、急激な一瞬にのみ可能であり、全体の曲線の頂点として効果的に用いられた。」

フロラ説の矢代は、彼女が西風の出現に驚いて右手首を返したと考えているようだ。しかし、何かに驚いた時、人の手はそんな動きをするだろうか。左側に転びそうになったので右手に力が入った、と解釈した人がいたが、まだその方が説得力がある。

私の考えはまったく違っている。この右手は何かを摑んでいるようにしか見えないのだ。

ちょっと脱線して右手の話を続けよう。まずは上の図版の説明から。すべてボッティチェリの筆で、左から順に〈受胎告知〉の聖母(ウフィツィ美術館蔵、比較のため右に45°回転させている)、〈春〉のアプロディテ、〈春〉の右から2人目の女性の右手である。

画家はアプロディテにも右手首を曲げるポーズ(中央)を取らせている。しかしこちらは女性らしい自然な仕種であり、図版からも分かるように、受胎告知におけるマリアの伝統的なポーズ(左)とよく似ている。ボッティチェリは女神の衣裳、右手をかざす仕種、光背を彷彿させる樹木のシルエットによって、彼女に聖母のイメージを与えている。これはどういうことなのだろう。

さらに、2人目の女性の両手をクローズアップすると、そこには彼女の手を通してフロラの衣裳の柄が透けて見えている。辻邦生(Tsuji Kunio 1925-1999)は、小説「春の戴冠」の中でこのディティールを取り上げ、乙女(2人目の女性)がフロラに変容する場面だと説明している(クロリス→フロラ変身説)。

最後は、彼女の口からこぼれ落ちる切れ切れの草花についての分析である。

オウィディウスの「行事暦(祭暦)」には、フロラが話し始めると「口からは薔薇の息があふれ」という描写があった。薔薇の息というのは香りのことだと思うが、画家はそれを薔薇の花そのもので表現したのだろうか。一歩ゆずって、もしそうだとすると、他の花も一緒にこぼれ落ちているのはなぜか。クロリス(変身)説では、この草花がやがて右から3人目の女性(この場合はフロラ)の衣裳につながっていくと解説している人もいるようだが、どう贔屓目に見てもそんなふうには見えない。

口から何かを出すことを「吐き出す」と表現する。つまり排泄、老廃物のイメージである。草花が切れ切れなのもこれを裏付けている。私はこの切れ切れの草花を、彼女が捨てていく「何か」だと解釈する。

祝!直木賞(拝啓 万城目学 殿)


昨秋、「拝啓 万城目学 殿」と題した記事をアップしたのですが、ちょっと女々しい感じがして、取り下げてしまいました。

最新作「八月の御所グラウンド」を、今まさに読んでいる最中なのですが、そこに思いもよらぬニュースが飛び込んできました。

という訳で、先の記事を復活させることにしました。

 

鴨川ホルモー以来、長きにわたってお世話になっております(私も京都の人です)。

現在は、エッセイ集「万感のおもい(夏葉社)」を拝読中。

その中にとても引っかかる言葉が…

 

『料理に限らず、小説でも、映画でも、音楽でも、人の心がいちばんよろこぶのは、それまで経験したことのない、質の高い、新たなたのしみに触れたときだと思う。

しかし、これがいちばん難しい。

人間、年を取り、経験が増えるにつれ、「新鮮さ」に遭遇するチャンスは反比例して減っていく。

個人の領域に「新鮮さ」に反応できる部分は残っていても、それを自身の手で掘り当てることはいよいよ難しくなる。』

 

私が長年取り組んでいる、プリマヴェーラの謎解きは、この言葉が、そっくりそのまま当てはまる世界だと思います。

しかも、「星の王子さま」はじめとして、色々なところで指摘される、「大切なことは目に見えない」を地で行くような話です。

 

500年以上前に描かれた、誰もが知るルネサンスの名画。

そこには9人のギリシア神話の神々が描かれており、描いたのは、物語を忠実に表現するタイプの画家でした。

その絵の謎が、西洋の碩学たちが100年以上かかっても解き明かせない。

なぜなら、彼らは絵を描かない人たちだからです。

 

数学の証明と違って、絵画の謎解きは、興味ある人なら誰もが理解できる、「それまで経験したことのない、質の高い、新たなたのしみ」に他なりません。

万城目さんでなくとも、どなたか私の挑戦に興味のある方がおられましたら、声をかけていただけませんでしょうか?