〈春と誕生(分析編)〉右から2人目の女性

アブストラクトで指摘しましたが、〈春〉という絵が解読できない最大の理由は、右から2人目の女性を取り違えたことにあります。いったい彼女は誰なのでしょうか?

絵から分かることは、西風にさらわれた(運ばれた)ことのある人物ということでしょう。その回答として、これまで彼女はクロリスと考えられてきました。しかし、ギリシア神話の中で、ゼピュロスに運ばれたことのある女性は他にもいます。

彼女がクロリスなら、(西風以外に)絵の中で関係がある神はフロラだけです。なぜなら、ギリシア神話の大地の精クロリスは、ローマ神話の花の女神フロラと同一人物と考えられているからです(「春のキャスト」で指摘)。

しかし、ギリシア神話に詳しい方ならお分かりかもしれませんが、私が考えている女性であれば、エロス(キューピッド)とアプロディテ(ヴィーナス)と密接に関係しており、三美神やヘルメス(マーキュリー)との繋がりも説明することができます。



                       春と誕生_右から2人目の女性

ボッティチェリは〈春〉にギリシア神話(1人だけローマ神話)の神々を描いている。したがって、テキストはギリシア神話だと考えるのが一番素直である。研究者たちも、おそらく最初は神話中にテキストを見つけ出そうと躍起になったに違いない。しかし、それが果たせないことが分かると、他の文献を探しまわった挙げ句、現在では〈春〉のテキストは「失われた」と考えているようだ。しかしながら、古代以来誰一人手がけたことのない異教世界の神々を描く大作に挑もうとして、画家がその典拠を求めた時、神話以外の拠り所などいったいどこにあったというのだろう。

〈春〉のテキストは必ずやギリシア神話の中にある。ボッティチェリという人は、〈ユディトの帰還〉、〈ホロフェルネスの遺骸発見〉、〈システィーナ礼拝堂の三壁画(キリストの試練、モーセの試練、反逆者たちの懲罰)〉、〈ダンテの神曲挿絵〉、〈ラ・カルンニア(誹謗)〉などの作品からも想像できるように、文学を絵画にすることを好むタイプの画家だったのである。

彼女の手がかりを〈春〉の中に求めるとすれば、それは右隣のゼピュロスだろう。すなわち、彼女は西風に運ばれたことのある人物に違いない。これだけのヒントで彼女が誰なのかピンときた方もおられるかもしれないが、ヒロイン探しは後まわしにして、ここでは彼女の特徴を詳しく分析していくことにする。

彼女の特徴はいろいろあるが、まず気づくのが、整然と並ぶ神々の中でなぜ1人だけこんなに複雑な姿態をしているのかということだ。彼女はとても忙しそうに見える。

クロリス説なら、この場面は彼女がゼピュロスにさらわれていくところだろう。しかし、クロリスがゼピュロスから逃れようとするシーンを描くのであれば、こんなポーズは考えられない。それなら、彼女の両手は西風を拒むように、彼の方に突き出されるはずだ。意味はもちろん「来ないで」である。

逆にゼピュロスが彼女を地上に下ろす場面と考えられなくもない。もしそうだとすれば、彼女は両足で着地すべきだろう。顔も左を向いていた方が安定感がある。なぜ彼女は片足立ちで、左側に転びそうなバランスで描かれているのか。

次に不思議なのは彼女の右手首である。美術史家の矢代幸雄(Yashiro Yukio 1890-1975)は、大著「サンドロ・ボッティチェルリ」の中でこのディティールを次のように解説している。「そこでは驚くフローラが美しい曲線を描いて腕を伸ばしている。その腕は、白い手それ自体が苦しんで助けを求めて叫んでいるかのように、突然上向きになって終っている。この手首の返しは、急激な一瞬にのみ可能であり、全体の曲線の頂点として効果的に用いられた。」

フロラ説の矢代は、彼女が西風の出現に驚いて右手首を返したと考えているようだ。しかし、何かに驚いた時、人の手はそんな動きをするだろうか。左側に転びそうになったので右手に力が入った、と解釈した人がいたが、まだその方が説得力がある。

私の考えはまったく違っている。この右手は何かを摑んでいるようにしか見えないのだ。

ちょっと脱線して右手の話を続けよう。まずは上の図版の説明から。すべてボッティチェリの筆で、左から順に〈受胎告知〉の聖母(ウフィツィ美術館蔵、比較のため右に45°回転させている)、〈春〉のアプロディテ、〈春〉の右から2人目の女性の右手である。

画家はアプロディテにも右手首を曲げるポーズ(中央)を取らせている。しかしこちらは女性らしい自然な仕種であり、図版からも分かるように、受胎告知におけるマリアの伝統的なポーズ(左)とよく似ている。ボッティチェリは女神の衣裳、右手をかざす仕種、光背を彷彿させる樹木のシルエットによって、彼女に聖母のイメージを与えている。これはどういうことなのだろう。

さらに、2人目の女性の両手をクローズアップすると、そこには彼女の手を通してフロラの衣裳の柄が透けて見えている。辻邦生(Tsuji Kunio 1925-1999)は、小説「春の戴冠」の中でこのディティールを取り上げ、乙女(2人目の女性)がフロラに変容する場面だと説明している(クロリス→フロラ変身説)。

最後は、彼女の口からこぼれ落ちる切れ切れの草花についての分析である。

オウィディウスの「行事暦(祭暦)」には、フロラが話し始めると「口からは薔薇の息があふれ」という描写があった。薔薇の息というのは香りのことだと思うが、画家はそれを薔薇の花そのもので表現したのだろうか。一歩ゆずって、もしそうだとすると、他の花も一緒にこぼれ落ちているのはなぜか。クロリス(変身)説では、この草花がやがて右から3人目の女性(この場合はフロラ)の衣裳につながっていくと解説している人もいるようだが、どう贔屓目に見てもそんなふうには見えない。

口から何かを出すことを「吐き出す」と表現する。つまり排泄、老廃物のイメージである。草花が切れ切れなのもこれを裏付けている。私はこの切れ切れの草花を、彼女が捨てていく「何か」だと解釈する。