春の寓意

                        
allegoria della Primavera 春の寓意
なんと見事なネーミングでしょうか。
この絵の意図が判らないが故に、
「ヴィーナスの統治(または治国)」などと、別のタイトルを与えたり、
これを命名したのは、画家ではなくヴァザーリである、と考える人たちがいるようですが、
ハッキリ言って、失敬千万!
確かに、ルネサンス期の絵画に、画題が付いているのは異例かもしれません。
しかし、絵を読み解けば、
それを画家以外が与えることなど有り得ないと、納得いただけるはずです。


昨年7/20のブログ「2人の芸術家の見解」で紹介しましたが、
画家が「シモネッタの死」を表現するために、この絵を描いたのであれば、
見る側の芸術家が、直感的にそれを読み取るのは、至極当然のことと言えるでしょう。


何度も同じことを繰り返して恐縮ですが、
「蒼白のゼピュロス」であれ、「春」という画題であれ、
私たちは、目の前にあるものを、あるがままに受け入れるべきなのです。
このことは、絵画の謎解きに限った話ではありません。


ここで再び、周囲の状況に照らし合わせて、この絵を読み解くことにしましょう。


1475年、ロレンツォ・デ・メディチ家督を継いで6年後、
フィレンツェは花の盛りを迎えようとしていました。
サンタクローチェ広場で開催されたジョストラは、それを象徴するような出来事で、
優勝したジュリアーノ・デ・メディチに、
美の女王シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチが冠を授けた時、
市民の興奮はクライマックスに達したのです。
この情景にインスパイアされ、
アンジェロ・ポリツィアーノは、
ジュリアーノとシモネッタのロマンスを綴った、長編詩の制作を開始します。


ところが、イベントの直後に病床についたシモネッタは、
翌年、惜しまれつつこの世を去ってしまいます。
ロレンツォが主宰する、プラトン・アカデミーのマドンナで、
その故郷ゆえ、常にヴィーナスのイメージがつきまとう彼女は、
誰からも思いを寄せられる存在でした。
彼女が没したとき、アカデミーの仲間たちは、競うようにして詩に詠み、
自ら4つものエレジーを書いたロレンツォ・デ・メディチは、
彼女の死を絵に留めるよう、ボッティチェリに委嘱します。
そして画家は、全身全霊を傾け、作品の制作に取り組んだのです。


まず最初はテキストの選定です。
物語を絵にすることを好んだ画家は、テーマを古代神話に求めました。
この時、相談相手になったのは、おそらく若いポリツィアーノだったのでしょう。
ボッティチェリはシモネッタをヴィーナスに見立てたかったのかもしれませんが、
あいにく、女神にはお誂え向きの寓話がありません。
そこで、最も相応しい話として、彼は「エロスとプシュケ」を選びます。
物語中、プシュケは様々な苦しみを受けた後に、
エロスと結ばれて幸福を手に入れるとされています。
そのプロセスを、蝶の羽化にたとえたこの寓話は、
シモネッタの死後の幸福を表現するには、うってつけの話だったのです。


多くの場合、「エロスとプシュケ」を主題とした絵画や彫刻では、
キャストは主役の2人だけに限られています(写真)。
ところが、ボッティチェリは絵の中に9人もの神々を登場させ、
彼女の肉体から霊魂が抜け出す瞬間を表現しようとしました。
ここで、「春」における神々の役割を確認していくことにしましょう。


ゼピュロスは、エロスとプシュケの結婚のお膳立て役です。
彼の蒼色は、(プシュケに見立てた)シモネッタの死を暗示すると同時に、
羽化以前の季節、すなわち冬を象徴しています。
西風に運ばれて、プシュケはエロスのところにやって来るはずですが、
そこには男神の姿がありません。
理由は、プシュケには彼が「見えない」からです。
画家は、見えないエロスが絵の中に居ることを示すために、
「幼児のエロス」を記号として描き、その目に目隠しをしました(2/18のブログ「見えないモチーフ」 を参照してください)。


それとは逆に、「見えない」エロスが居るべき場所に、
物語とは関わりのない、ローマ神話の女神フロラが描かれています。
彼女は、プシュケがサナギから蝶になる場面に用意された「花」を意味しています。
画家がわざわざ彼女を呼んだ理由は、
一対の蝶(プシュケ)と花(フロラ)によって、「春」を表現するためです。


一方、物語のクライマックスは結婚です。
画家は「矢」と「アイリス」という小道具を使って、
2人の交わりを見事に表現してみせました。
矢が的と対称の位置に向けられている理由は、
物語の流れに逆行しないため(必要条件)と、
最初に狙いをつけた方向に、矢を放つとは限らないから(十分条件)です。
おそらくその瞬間、
2人は「炎の矢」と「左側のアイリス」、
そのものに変身しているイメージなのでしょう。


アプロディテは、この寓話中は悪役ですが、
最終的にはゼウスに説得されて、2人の結婚を認めます。
画家は「受容」を表現するために、
女神に聖母のイメージ(衣装・右手をかざすポーズ・光背)を与えています。


アプロディテの侍女カリテスが表現しているのは、もちろん「祝福」です。
美術史家は、何故か3人の女神をバラバラに分離して考えたがるようです。
分析好きの西洋人の特質(8/9のブログ「東洋vs西洋」を参照してください)はともかくとして、
神話に出てくる、数人一組の(重要度の低い)神たちは、
1人々々を分離して解説しても、意味があるとは思えません。


「エロスとプシュケ」の物語は、ここまででお終いです。
では、ボッティチェリは何故絵の左端にヘルメスを描いたのでしょうか。
「春」におけるヘルメスの役割は、「魂の案内人(プシュコポムポス)」です。
誰の魂かって? もちろんそれはシモネッタです。
画家は彼を呼んで、シモネッタの霊魂を絵の中(彼の指し示す雲)に封印したのです(5/2のブログ「ヘルメスと宝杖」を参照してください)。


長くなってきましたので、一旦休憩。
続きは次回をお楽しみに。
(snow)