ヴィーナスの誕生

  
「春」という絵が不幸を呼んだのか。それとも、たまたま完成直後にパッツィ事件が起きたことで、絵の方が割を食ったのか。
真実は誰にも分かりませんが、いずれであったにせよジュリアーノが暗殺されたことで、絵の運命が変わったことは間違いありません。


おそらく「春」は、事件から時を置かずして、パラッツォ・メディチ(ロレンツォ邸)からピエルフランチェスコ邸へと移されたのでしょう。
画家の無念さは如何ほどだったでしょうか…


ロレンツォは事件の後、ボッティチェリに絞首刑の壁画を依頼します。
矢代氏はこれに関して、次のように指摘しています。
「この種の仕事のために『プリマヴェーラ』の画家が選ばれたのはふしぎなことに思われる。(中略)画面は戸外に展示されるはずであり、距離をおいて見たときに強烈な印象を与え得るようなやり方で描かれねばならない。主たる動機は罪人たちに対する憎しみと残忍な刑罰と恐怖感とのぬぐうべからざる印象を見る者に刻印することでなければならない。この仕事はあらゆる点でボッティチェルリの天分に向かないのである。」(矢代幸雄著、吉川逸治、摩寿意善郎他訳 『サンドロ・ボッティチェルリ』 1977 岩波書店より)
しかし私には、「春」を描いた人だからこそ、この仕事を任されたのだと思えてなりません。


残念ながら、このフレスコ画は取り壊されて現存しませんが、その名残を留める絵がオンニサンティ聖堂の「書斎の聖アウグスティヌス」であることは、すでに指摘した通りです。
アウグスティヌス」の完成後、ボッティチェリフィレンツェを離れ、ローマに向かいます。システィーナ礼拝堂の仕事が表向きの理由ですが、画家がフィレンツェを離れたかったのも頷けます。これにはロレンツォの助言があったのだと、私は想像しています。


そして、ローマから戻って暫くして、彼は「ヴィーナスの誕生」を描くのです。


大きさの類似、何れもギリシア神話がテーマで、中央に女神アプロディテ(ヴィーナス)。
これら魅惑的な理由によって、美術史家は「春」と「誕生」を一対のものと考えたがるようです。「天上のヴィーナスと地上のヴィーナス」という有名な解釈もその1つでしょう。
ですが、「春」が描かれた時点で「誕生」の構想などあるはずがないのです。


パッツィ事件から7〜8年、ないしはそれ以上が経過し、フィレンツェに戻ってようやく落ち着きを取り戻した画家が、どうしても「誕生」を描きたかっただろうことは、想像に難くありません。
すなわち、今度はシモネッタをヴィーナスに見立てて、彼女の「生」の瞬間を描こうとしたのです。
その思いが、「春」と双璧をなすルネサンスの至宝を人類にもたらすのですが、この絵の完成をもって、はたして画家の無念は晴れたのでしょうか…


「春」と「誕生」は対として構想された訳ではありません。
しかしながら、シモネッタの「死の瞬間」と「生の瞬間」を表現した両者は、結果的には対極の絵であり、その意味において、一対であることは否定のしようがありません。
したがって、2枚に何らかの関連性を求める直感そのものは、正しいと言えるでしょう。



さて、昨年来書いてきました「春」の謎解きは、今回をもって終了です。
最大の課題(第3の壺)だった、「春」または「春の寓意:allegoria della Primavera」という題名についての私の解釈は、納得いただけたでしょうか?
今後は、管理人H氏がブログの内容を整理し、サイト本編を充実させてくれるものと期待しています。そうだったよね確か…
それから、お気づきの方もおられるかもしれませんが、未解決の問題が1つだけ残っています。
横糸⑭:なぜ矢は的を直接狙っていないのか(4/4追加)
これは、取り敢えずこのままにしておきます。もちろんコメントいただければ、回答したいと思っています…


ブログは今後も続けたいですが、新たな展開まで少し間があくかもしれません。
凸版印刷の検証をはじめとして、project-primaveraの進捗情報が報告できればよいのですが…
(snow)