ヘルメスと宝杖(カドケウス)

            
「エロスとプシュケ」の中にヘルメスが登場するのは次の場面です。


「エロスは稲妻が高い天を刺すような速さでゼウスの前に進んで、歎願いたしました。ゼウスはもっともだと聞きました。そうして恋人たちのために熱心に説いたものですから、アプロディテも承知いたしました。それでゼウスはヘルメスをやって、プシュケを天の団欒に連れて来させました。」(トマス・ブルフィンチ著、野上弥生子訳『ギリシアローマ神話』1978 岩波書店より引用)


たったこれだけ? 思いっきりチョイ役ですね。
サッカーの試合で、後半ロスタイム残り2〜3分で交代出場した選手みたいな (^_^;)
もちろん、これだけの役割ならボッティチェリが「春」にヘルメスを描く道理がありません。
画家が彼を呼んだ理由は、(フロラ同様)テキストとは別のところにあるのです。


ヘルメスは伝令神として有名ですが、マルチタレントである彼には、他にも様々な役回りがあります。その中の1つが、画家が彼を採用した理由に他なりません。
その役割とは〜死者を冥界へ案内することで、そのため彼は別名プシュコポムポス(魂の案内人)と呼ばれています。


これまで「春」のヘルメスには、「雲を払っている」とか、「三美神の1人と恋に落ちる」とか、様々な解釈がありましたが、み〜んな見当違いです。
彼は亡くなったシモネッタの魂を導くために、この絵に呼ばれたのです。
いったいどこへ?
もちろん彼の見つめる先、彼の杖が指し示す雲、すなわちこの絵の中に〜です。


宝杖についても触れておかねばなりません。
ケリュケイオンギリシア語)あるいはカドケウス(ラテン語)と呼ばれるこの杖は、元々はアポロンが所有していましたが、自作の竪琴と交換にヘルメスのものとなりました。
ケリュケイオンには2匹の蛇が巻き付いているのが普通ですが、「春」には羽の生えた竜が描かれており、しかも画家はわざと杖を逆さに持たせ(頭部を手にするのが普通)竜の頭を雲の方に向けています(図版左)。


雲を死者の魂あるいは魂の宿る場所とする考え方や、竜を不死の象徴とする考え方は古くからあります。
ボッティチェリはこのような方法で、シモネッタの(不滅の)魂を絵の中に封印したのです(縦糸⑨、横糸⑫の解答)。
ついでに言っておくと、霊魂の宿る場所である雲を、プシュケの生(性)の象徴であるアイリス∨と対角の位置に描く念の入れようです。


そして…


本来であれば、「春」は未来永劫にメディチ家を見守っていくはずだったのです。
絵の完成をロレンツォもジュリアーノも大いに喜んだに違いありません。
その直後に不幸(パッツィ事件)が起きることなど、この時誰に予想することができたでしょう…
(snow)