プシュケの姿態(エピローグに代えて)

                               
先日ようやく、映画「天使と悪魔」を見ました。 遅いよ!
ダン・ブラウンはベルニーニの天使を上手に使って、ラングドン教授を「答え」へと導くのですが、
私の頭の中は???で一杯になってしまいました。


ベルニーニは代表作「聖女テレサの法悦(サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア聖堂)」(写真)の天使に、矢を持たせているのです。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini 1598-1680)については、私は詳しくありませんので、りょーこさんの「ドラマチック・ベルニーニ」をご覧下さい。このサイトにはプリマヴェーラのお話もあります。


コメント等で何度か触れましたが、
ギリシア神話のエロス(キューピッド)とキリスト教の天使は、何の関係もないのですが、
絵画や彫刻として表現する場合(いずれも翼のある小童の姿で表すため)混同しやすいので、作家はアトリビュートを与えるのが一般的です。
代表的なものは、エロスなら矢、天使なら光輪です。
したがって、矢を持っていればエロス、矢がなければ天使という暗黙の了解が存在します。


現代の日本人が、(無知故に)天使に矢を持たせるのは、ご愛敬で済む話ですが、
イタリア・バロックの巨匠ベルニーニが、そんな間違いを犯すとは、到底考えられません。
どなたか、理由をご存知の方がおられましたら、ぜひご教授下さい。
前置きはここまで。


さて、ここ3回、「パッツィ事件」、「ローマへ」、「2人のヴィーナス」と、
私のフィクションにお付き合いいただきましたが、
最後は絵の世界に戻ろうと思います。


テーマはプシュケのポーズです。


整然と並ぶ神々の中、なぜ彼女だけがこんなにも複雑な姿態をしているのか、
お判りの方はおられますでしょうか?


「エロスとプシュケ」を主題とした絵や彫刻は、
ほとんどの場合、物語の一場面を切り取って表現されています。
これに対して、「春」はドラマの時間経過を包含する絵画です。
そこにはプシュケが、ゼピュロスに運ばれてきて〜エロスと結婚し〜神々に受容・祝福され〜ヘルメスに導かれる(この部分は画家の創作ですが)までの物語が描かれているのです。


そこで…
アプロディテをはじめとする脇役たちの登場場面は、それぞれ1回限りですから、
表現上何ら制約はありませんが、主役の2人はそうはいきません。
ただし、エロスの本体は(プシュケや私たちには見えないという理由で)描かれていないので、
どこに居て、どんなポーズを取っているのかは、見る側の想像力に委ねられています。
画家は上手いことを考えついたものです。


ところが、プシュケだけはそういう訳にいきません。
ヒロインの彼女は、1人で幾つもの場面を表現しなければならないのです。
具体的には、以下の3つです。
①エロスのところに運ばれてくる場面
②エロスとの結婚の場面
③蝶となって花(フロラ)のもとから大空へ羽ばたく場面


ボッティチェリはこれら3場面の最大公約数的表現のために、
彼女のポーズに工夫を凝らしています。


①左手が(見えない)エロスの胸に添えられており、彼に支えられていることを示しています。
②右手が(見えない)エロスの股間を掴んでおり、彼の愛を喚起しています。「春」の中で最もエロティックな表現です。この直後、炎の矢∧が放たれ、左側のアイリス∨に命中するのです。
③口からこぼれ落ちる切れ切れの花々が、羽化する際に蝶が捨てていくサナギの殻を表現しています。


画家はこれら3つを含むプシュケのポーズを、念入りにスタディーし、
最終的な構図を決定したのに違いありません。


そして霊魂となって、私たちの眼前から消失したプシュケ(シモネッタ)は、
ヘルメスによって、画面左上の雲の中へと導かれるのです(昨年5/2のブログ「ヘルメスと宝杖」を参照してください)。



以上
昨年の8月以来書いてきました「春」の解説は、今回をもって終了です。
どこかで目にしたような台詞…
ブログは例によって、しばらくの間「休眠」します。
なるべく近いうちに、新たな話題を取り上げ、再開出来ればよいのですが。
(snow)