〈春と誕生(分析編)〉エロスの目隠し


今回と次回、2度に亘ってエロス(キューピッド)の分析をします。
前回書きましたが、この部分が分析編の肝すなわちハイライトです。
この話を信じることが出来れば〈春〉の解明に辿り着けますし、そうでなければ謎は謎のままです。
ボッティチェリは9人の登場人物中、なぜ1人だけ幼児の姿で描いたのでしょうか?


                       春と誕生_エロスの目隠し

〈春〉のエロスはなぜ目隠しをされているのだろう。この表現は他の画家の事例もあるようだが、美術書等では「愛の矢を射かけて神々を恋の虜にする悪戯のために、母のヴィーナスによって懲らしめとして目隠しをされた」などと説明されている。「恋は盲目」といった抽象的な言葉で読者を煙に巻く解説もある。しかし、それらはどれもみな絵を描かない人たちの発想である。画家の考え方はこれとはまったく違っている。ボッティチェリがエロスに目隠しを描いたのは、男神が「見えない」ことを表現するためなのだ。

画家は時として「見えない」モチーフを描かねばならない。分かりやすい例は受胎告知(聖告)の天使だろう。キリスト教世界における天使は、人の目には見えない存在である。

イエス・キリストの神性を保つため、聖母は処女のまま(男女の交わりなしに)身籠るとされている。そこで、神の子を宿すことを予告するため、天使ガブリエルがメッセンジャーとして使わされ、マリアがこれを受け入れるというエピソードだ。西洋絵画において繰り返し取り上げられるテーマである。

言葉で懐妊を予告するのは簡単だが、漫画と違って絵画にセリフを書き込む訳にはいかない(古くは文字入りの受胎告知も存在した)。天使が描かれていなければ、聖母は啓示を受けるだけなので(内面的な問題だから見た目の変化はない)、見る側には聖告があったことが分かりにくい。

では、この場面をどのように絵にするのか。その答は翼や光輪にある。それらの表徴とともに描かれた人物が天使であり、イコール見えない存在というのが画家たちの不文律だ。

かつて教会は、文盲無学の教徒に絵を使って教義を教えねばならなかった。導師は、翼とともに描かれた人物を「見えない」と指摘することで天使の存在を正当化したのである。

ボッティチェリと同時代のシチリアの画家、アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina 1430頃-1479)は〈受胎告知を受けるマリア〉で、天使を描かず、聖母のポーズと表情のみでその瞬間を表現している。私はメッシーナの手法に断然リアリティーを感じるが、画家の技量が伴わない時代には、滑稽な絵しか描けなかったに違いない。

ギリシア神話男神エロスも、天使と同様、人間には見えない存在である。エロスはまたアプロディテとその恋人アレスの息子の美青年ということになっている。今はまだ明かせないが、ボッティチェリが選んだテキストでは、男神はほとんど例外なく青年の姿で描写されている。しかし、エロスが見えない方が画家にとっては都合が良かった。そこで彼は、テキストの一般的な表現形式からあえて逸脱し、幼児の姿で男神を描いた。このモチーフは、絵の中に青年のエロスが存在することを告げるための記号である。目隠しというシンボルを用いて、画家はエロスの実体が「見えない」ことを表している。

最近はあまり見かけなくなったが、以前はよく民家の玄関先に「犬」と書かれた四角い紙が貼ってあった。泥棒よけが目的なのだろうが、「犬」という記号が、どこに潜んでいるのかは分からないがその存在を暗示していたのだ。〈春〉に描かれた幼児のエロスも、これと同じイメージである。