〈春〉が描かれてから540年余り。現在は「結婚を祝う絵」と考えている人が多いようです。
でも、それって間違いです。私の考えがオカシイと思う方は、どうぞ反論なさってください。
〈春〉の画面右端にはゼピュロス(西風)が描かれています。最近の解説で、彼の色(蒼白)を説明しているものにお目にかかる事はまずありませんが、私はいつもこんな風に言っています。『結婚式に黒いネクタイを締めて行くようなものだ』
絵を見るだけの人にとっては、さほど気にならないのかもしれませんが、注文主にとっては由々しき問題です。
ボッティチェリに「結婚を祝う絵」を依頼して(ルネサンス当時、注文を受けずに絵を描くことなどありません)、こんな絵が届いたとしたら、誰だって、西風の描き直しを命じるか、「縁起でもない」と言って突き返すに違いありません。そんなこと、子供にだって分かりそうなものです。
春と誕生_蒼白のゼピュロス
〈春〉を初めて見る人であれば、そしてそれが子供のように先入観のない純粋な心の持ち主なら、誰もがいだく疑問がある。この名画の中にあって最も不自然な点、それは蒼白のゼピュロスだろう。
ギリシア神話では4人のアネモイ(風神)がよく知られている。ボレアス(北風)、ノトス(南風)、エウロス(東風)、そしてゼピュロス(西風)である。なかでもゼピュロスは最も温和で、春の訪れを告げる神とされている。
〈春〉という画題の絵に、春の訪れを告げる風神が描かれているのは何ら不思議ではない。しかし、登場人物中、1人だけを蒼白に彩色した意図はどこにあるのか。もちろん、ギリシア神話の西風が伝統的にブルーで描かれる、というのなら話は別だが、この表現が異例であることを画家は当然承知していたはずである。〈ヴィーナスの誕生〉のゼピュロスがそのことを証明している。
一方、ボッティチェリは〈コンヴェルティーテ祭壇画(上の図版)〉において、磔にされたキリストを〈春〉の西風を彷彿させる色で描いている。なぜ彼がキリストにこの色を用いたのか、説明するだけ野暮というものだろう。
絵を見る側は、9人中1人だけが別の色で描かれていても、なぜだろう程度にしか考えないが、描く側はまったく意識が違っている。
音楽を例に取ると。そのフレーズにふさわしい和音は何か、作曲家は徹底的に考え抜くに違いない。楽譜には一音たりとも無駄な音はないと言われる所以である。聞く側は自分の直感を信じてさえいればよい。解説などに頼らずとも、音楽家は自らの意図が最も伝わりやすいコードを選択しているはずである。
絵画の場合も、理屈はこれとまったく同じで、画家は自らの意図を伝えるために色や形を選んでいる。ボッティチェリが西風に用いたこの色は、もちろん「死」を暗示するためである。その率直なインスピレーションを無視して解説しようとするから、〈春〉は難解な絵になってしまうのだ。
余談だが、〈春〉を初めて目にした友人の医師が、絵を見た途端ゼピュロスを指さし、「この人死んでるでしょ、人間は死んだら本当にこんな色になるよ。」と教えてくれたこともある。
〈春〉の研究者たちが、これまで蒼白のゼピュロスを徹底的に無視してきたと言うつもりはない。別荘購入説の時代には、「氷のような北風を表す」と考えた人や、先ほどのポリツィアーノの詩をもとに「好色な西風の軽佻な性向を表す」と解釈した人もいたようである。しかし、結婚説が主流となった現在、この色にあえてチャレンジしようとする解説者はそう多くはいまい。
彼らはこう反論するかもしれない。「そんなはずはない。死が描かれているのなら、〈春〉という画題をつける訳がない」と。しかし、その思い込みこそが見る者の目を曇らせ、長い間この絵が解明できなかった理由に他ならない。
ゼピュロスに「死」というキーワードを重ね合わせた時、ギリシア神話から導き出される回答はヒュアキントスの事件だろう。美少年ヒュアキントスに恋をしていた西風は、彼とアポロンとの仲に嫉妬し、事故を装って(2人が円盤投げをしていたとき、アポロンの投げた円盤が突風に煽られてヒュアキントスの頭を直撃)殺害する。少年の死を嘆いたアポロンが、流された彼の血からヒヤシンスの花(今日のヒヤシンスではなく、アイリスの一種だと言われている)を咲かせた話は、ご存知の方も多いだろう。
ただし、この話が〈春〉のテキストとは考えられない。理由は美少年とアポロンの不在である(円盤も見当たらない)。
ギリシア神話に答がないのなら、ボッティチェリが西風にこの色を使った理由は何か。
私はこの絵が、(神話ではなく)実際の誰かの死と密接に結びついていない限り、もっとはっきり言えば、この絵の制作動機が画家あるいは委嘱者に近い誰かの「死」でない限り、これを説明することはできないと考えている。