パッツィ事件

                                     
ボッティチェリが「春」の制作に要した時間は、おそらく2年弱だったと私は推測します。
というか、私が小説家なら、絵の完成披露は1478年4月22〜23日頃に設定するでしょう。


「春」がシモネッタの生前に描かれる道理はありません(命日は1476年4月26日(金))。
たとえ、彼女の命が残り僅かだと分かっていたとして、
その死を絵に留める話が、画家とパトロンの間にすでにあったのだとしても、
シモネッタの存命中に制作に取りかかるなど、とても考えられません。


余談になりますが、
小説「春の戴冠」では、「ヴィーナスの統治(春のこと)」はシモネッタの生前に完成しており、彼女はその絵を目にしています。
しかしここで、小説家は絵の制作に必要な時間を、かなり短く見積もっています(フィクションなので何でもありですが)。
つまり、彼女が倒れた1475年のジョストラ(小説中は6月28日(水)に開催)の後、
晩秋に「ヴィーナスの統治」の制作を開始した場合、シモネッタの命日までの僅か半年程度で絵を完成させることは、物理的に不可能なのです。


話を戻します。
「春」の制作がシモネッタの死後にスタートしたことは間違いありません。
ここで考察しようとしているのは、完成日の方です。
この絵をシモネッタが見た可能性はゼロですが、
問題は、ジュリアーノが見たかどうか、という点です。
その後の成り行きから類推して、
私は「見た」と考えています。しかも、その直後に暗殺されたのだと…


画家はこの絵に自らの命を注ぎ込みました。
2m×3mの大画面の中に、手を抜いたカ所などあるはずもなく、
弟子たちにも、一切触れさせなかったに違いありません。
ボッティチェリの制作スピードの速さは、「フォルテッツァ(剛毅)」(図版)を約2ヶ月で仕上げたことでも知られていますが、「春」は例外中の例外だったと思います。
発注者のロレンツォやジュリアーノにしてみれば、
いったい、いつになったら完成するのか〜と首を長くしたことでしょう。
そして、とうとう待ち切れなくなって、
シモネッタの命日(4月26日)までに、パラッツォ・メディチに納めるよう、
画家に締切日を通告します。(私の勝手な想像ですから、信用しない方が…)


本当はもっと時間をかけたかったのかもしれませんが、約束は守らねばなりません。
4月22〜23日頃、とうとう「春」はメディチ邸に運び込まれました。
絵を覆っていた布が取り外された時(そんな演出があったのかどうか)、
メディチ兄弟は息を飲んだに違いありません。
そして、画家の解説に熱心に耳を傾けたのでしょう。
「春の寓意」という画題も、その場で告げられたはずです。
ルネサンスの幕開けを告げる、これまで見たこともない異教主題の大作とその完成度の高さに、兄弟が大いに満足したのは、疑う余地がありません。
ただしこの時、僅かではあったにせよロレンツォの心に不安の翳がよぎります。
そしてその予感は、数日後、不幸にも現実のものとなってしまったのです。


運命の日、1478年4月26日(日)―――松平アナの科白でお馴染み。
復活祭のミサのため、ドゥオーモ(大聖堂)に参列していたメディチ兄弟を、
パッツィ家の刺客が襲います。
ロレンツォはポリツィアーノらに助けられ、一命を取り留めますが、
背後から襲われたジュリアーノに、逃げるチャンスはありませんでした。
このテロにおいて、フランチェスコ・デ・パッツィやサルヴィアーティ(ピサ大司教)たち暗殺者が描いていたシナリオは、あくまで兄弟2人共の殺害でした。
それが果たせなかった場合、メディチ家に逆襲されることは、火を見るよりも明らかだったのです。


神は、ジュリアーノ1人を召されました。
結果、テロリストたちはことごとく捕らえられ、
ヴェッキオ宮他の高窓から吊されたのです。
では、この事件の後、「春」の運命はどうなったのでしょうか。
To be continued.
(snow)