シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ

   

シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ(Simonetta Cattaneo Vespucci 1453頃-1476)のことを少し書くことにします。
彼女に関しての記録はほとんど残っていないため、史実に基づく話ではなく、私の個人的見解です。
出鱈目かもしれませんので、信用しない方が無難です。


シモネッタと聞いて、思い浮かぶ女性が2人います。
1人はエヴァ・ペロン(エビータ、Maria Eva Duarte de Perón 1919-1952)、
もう1人はダイアナ妃(Diana, Princess of Wales (Lady Diana Frances Spencer) 1961-1997)です。
3人の共通点は、美人で夭折したということでしょうか。
多くの人々が参列した葬儀の光景(ダイアナさん以外は想像)が、私に強烈な印象を与えています。
「彼女を前にすれば、死もまた美しい」という、ロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニフィコ)の有名な言葉が残っていますが、彼女たちは皆その若い命と引きかえに、神話の主人公となったのです。


シモネッタの死は史実として残っていますが、誕生の方は曖昧です。
1453年頃〜ジェノヴァ共和国の生まれ、くらいのことしか判っておらず、
出生地についても、ポルトヴェーネレ説とジェノヴァ説(どちらも地中海を望む港湾都市、現リグーリア州)があるようです。
ポルトヴェーネレは邦訳すれば「ヴィーナスの港」ですから、ちょっと出来すぎの感もありますが、
いずれにせよ、フィレンツェから見れば、地中海(ヴィーナスが生まれた場所)からやって来た、ということになるのでしょう。


1469年にヴェスプッチ家に嫁ぎ、フィレンツェに移り住んでいます。当時15〜16歳。
旦那のマルコ・ヴェスプッチについては、どんな人だったのか何も分かりません。
何方かご存知でしたら、ご教授ください。
ともあれ、以降ヴェスプッチ家とメディチ家の交友関係の中で、
ロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟と出会い、
アンジェロ・ポリツィアーノはじめとするプラトン・アカデミーの仲間たちに接し、
もちろん、ボッティチェリとも親しくなったに違いありません。
おそらく、美人で聡明な彼女は、サークルのマドンナ的存在だったのでしょう。


そして有名なのが1475年のジョストラ(馬上槍試合)です。
フィレンツェヴェネツィア・ミラノの同盟を祝って催されたこの一大ページェントにおいて、
ロレンツォは弟ジュリアーノの名声を高めようと目論んでいました。
ジュリアーノは兄の期待に応えて見事に優勝し、
勝者に冠を授ける美の女王として選出されていたのが、シモネッタだったという訳です。
なんか、小説のような話ですね。
ちなみに、ボッティチェリはこの時、パラスとクピドをデザインしたジュリアーノの旗印を描いたとされています。


ジョストラの鮮烈な印象ゆえ、2人のロマンスは永く語り継がれることになるのですが、
実際に2人が恋仲だったのか、シモネッタは不倫をしていたのか(当時マルコは存命だったのか)、その辺りの真偽は想像の域を出ません。
ただ、ジョストラから時を置かずして、彼女が病に倒れたという話を信じるならば、
2人の恋は――いやロレンツォもボッティチェリポリツィアーノも皆、彼女に思いを寄せていたのかもしれませんが、どれもみな――プラトニックなものだったに違いありません。


シモネッタの葬儀は遺骸を公開して行われ、多くのフィレンツェ市民が彼女との別れを惜しみました。
詩人たちは競いあって彼女の死を詩に詠み、ロレンツォ自身、4つものエレジーを書いたとされています。
このような成り行きから推測して…
当時ボッティチェリパトロンだったロレンツォ・デ・メディチが、
彼女の死を、絵として留め置くことに思い至ったとしても、何ら不思議はありません。
その絵が他ならぬ「春」だったというのが、私の主張です。


それはさておき、ボッティチェリの描いた数多くの女性たちのうち、
どの顔がシモネッタなのでしょうか。
私のイチオシは、「ヴィーナスとマルス」(図版)の女神です。
もちろんマルス役は、ジュリアーノ・デ・メディチ(1478年没)でしょう。
2人がともに世を去って5年以上が経ち、画家自身の心の傷もようやく癒え、
彼らを想い出しながら(シモネッタは病床のイメージでしょうか)描いた作品に違いありません。
それから数年後、同じ顔が今度は「ヴィーナスの誕生」に現れます。
(snow)