美の京都遺産

         

関西圏だけの放送なのが残念だが、毎日放送の日曜早朝の番組に「美の京都遺産」がある。担当ディレクター曰く「視聴率を気にせず自由に作れる」だけあって、民放としては極めて質の高い番組である。
来る3月3日6:15〜6:30に、亡き父「徳力彦之助」を取り上げていただく。私も少しだけ登場します。ご覧ください。

天地創造4

       

制作の途中、下絵発表の段階からマスコミを賑わしていたこの作品だが、肝心の受け皿(オペラハウス)の計画が暗礁に乗り上げてしまい、行き場を失ってしまった。しかし完成披露は京都市美術館において、約2週間にわたって行われた(「天地創造」がKBSホールに入るのはそれから11年後の1981(昭和56)年である)。
ところがここでまた問題が発生する。
美術館の展示室は幸い作品よりも大きかったため事なきを得たが、その設置方法が問題になった。すなわち作品を立てて見るためには、足場組から始まって照明器具の設置まで3日もかかるというのだ。設置程ではないにせよ撤去するにも多少は時間がかかる。設置と撤去に4日も費やしていたのでは2週間の展覧会期間が2/3になってしまう。そこで考え出された解決方法は、作品自体は床に並べて(照明は下に仕込んで)、その上に橋を渡して上から見おろすというものだった。
先程その起源について触れたが、それが建築的に処理されている場合、私たちはステンドグラスが見上げるものだという意識をどこかに持っていないだろうか。光は天から降り注ぐものだという固定観念を。その意味で、京都市美術館における「天地創造」展は、訪れた人にとっては不思議な体験となった筈である。
余談だが、2008年5月31日に放映された、朝日放送の「週末の探検家〜夢羅針盤〜」という番組で「天地創造」を紹介して頂いた(ナビゲーターは堀ちえみさん)。私もロケーションに立ち会ったが、目隠して彼女を作品の前に連れて行きそれをはずした途端、あまりの大きさにうしろにひっくり返りそうになったのが、とても印象に残っている。



ステンドグラスの制作と時期を同じくして、彦之助が手がけた仕事に銅鐸の研究がある。「銅鐸は生きている」白川書院
120枚のピースの調子を合わせるために、ステンドグラスの仕事は昼間の一定時間だけに限り、夜は夜で、彼は古代史の(しかも少しアブナイ)世界に没入していたのだ。
次回以降は、彦之助と私の共作で、私たちのごく身近に存在していながら「芸術家の目を通して見ると、これ程違ったものに見える」一例として、お寺の梵鐘についての考察をお読みいただくことにしよう。

天地創造3

       

とはいうものの、彦之助には最初から目算があった。それは彼がこれまでモザイク壁画(姫路市名古山仏舎利塔内の縦2.4〜3.6m、横約75mの「佛傳図」)等の作品で手がけてきたアクリルという素材である。
アクリルは今でこそいくらでも私たちの身の回りに存在しているが、戦後この素材をいち早く創作活動に取り入れたのは彦之助唯一人だった。
細かい技法については省略するが、アクリルの比重はガラスの約半分であり、色や種類の違うピース同士を結合するためのケーム(鉛線)も、この素材の導入で不要となったため、軽量化の問題は一気に解決した。
アクリルはガラスではないから、その作品はステンドグラスとは呼べないのではないか、と疑問に思われる方も中にはあるだろう。確かに仰る通りだと思う。しかしステンドグラスの定義はともかくとして、その起源に思いを馳せれば、重要なのは素材ではなく光の方だということに気づいてもらえるに違いない。
《ステンド・グラスの有難さは、その光が、自分の身体に降りそヽぎ、自分の身体全体をその紅の光で包み込んでくれるところにある。神は「光」の方にあって、画像の方ではないのである。》
なにより実際にこの大作の前に立つと、その素材が何であるかという問題は、些細なことに過ぎないと感じられる。
さて、重さの問題からはひとまず解放されたが、大きさの方は依然として残されている。10m×24mの作品を、そのままの大きさで制作することは、お化け屋敷のアトリエがいかに大きくても不可能である。したがって画面は2m×1mのアクリル版120枚というヒューマンサイズに分割されることになった。
しかし手頃な大きさになったからといって事はそう簡単には運ばない。たとえば、全体の調子をととのえるために、すべてのピースに少しずつ手を入れていくことを考えてみると。たとえ1日1枚一工程のペースで仕事を進めたとしても、一巡して元のピースが出てくるまでには4ヶ月が過ぎてしまう。1年経ってもやっと三工程ほどしか進まない。こうして妻康乃(私の母)との共同作業で5年余りの歳月を要した「天地創造」は1970(昭和45)年、ようやく完成にこぎつけた。

天地創造2

           
ところで、これくらい大きな作品を制作するとなると当然様々な問題が起こってくる。そのうちのいくつかを紹介してみよう。
まずは重さの問題である。240㎡のステンドグラスを通常の技法で作ったのでは重過ぎて自己崩壊してしまう。事実ヨーロッパの古いステンドグラスは、いずれもそのような経緯で壊れてしまった。いや正確に言えば今も壊れ続けている。
《ガラス片を連繋するのは、古代では、木枠や、石膏、大理石をくり抜いたものなどであったが、中世期では、断面が工字型になった鉛のリボン(インテルと呼ぶ)にはさみ込むことになった(現在はケームと呼ぶのが一般的)。ガラスの切断に、ダイアモンド・カッターが用いられたのは、中世後期以降で、それ迄はグロージング・アイアンを用いた。だから、ガラスの切断面が正確であるという保証はない。鉛と、ガラスの間に出来る、わずかの隙間はパテで埋められる。こうして出来上ったパネルは、鉄のロッドで補強されて、窓に取付けるのである。パネルの中の、小さなガラスの一片が、何かの拍子ではづれ落ちることが起きる、こう云うことは、多数の窓絵の中では、しばしば、起きることではあるが、考えられない程、小さなミスなのであろう。風が、その小さな穴から出入りする間に、隣合った小片を、少しばかり、押し開げる。ガラスのピースは、それが、垂直に繋ぎ合っている間は、個々のガラスそれ自体の重力は、零に等しいのであるが、一旦傾斜が起こると、自体の重みから、インテルを押しまげて、落下する。インテルはそれ自体の重みで、次のガラス片から、パテを引きはがす、このようにして連鎖反応を起こしながら、パネルは、その一角が、くずれ落ちるのである。》
固定されたものでさえ崩れてしまうのである。まして緞帳にこの技法を使うことなど考えられない。崩壊を防ぐために、いかに軽量化を図るのかが、ステンドグラスの緞帳に課せられた最大の課題だった。

天地創造1

ステンドグラスというと大方の人は教会の窓やランプシェードを連想されるだろう。しかし彦之助が制作した「天地創造」というステンドグラスは、オペラ劇場の緞帳として計画されたものだった。
1997(平成9)年秋、東京・初台に関係者の永年の念願がかない、国際的水準のオペラ劇場=新国立劇場が漸く完成した。手前味噌で申し訳ないが、当時私は、国際設計コンペで第一位に選ばれた柳澤孝彦(竹中工務店)チームの一員だった。
しかしその約30年前、京都に3200人収容の大オペラハウス(新国立劇場は1800人収容)が計画されていたことをおぼえている人は、今ではごく僅かになってしまった。
1965(昭和40)年頃、その計画を携えて彦之助のアトリエを訪れた故白石英司・京都新聞社社長(当時は財団法人日本文化財団理事長)に向かって、彼は「劇場の天井や壁を飾るモザイク壁画よりも、ステンドグラスで作った新しいタイプの緞帳を開発しましょう」と提案する。
彦之助は特許(841167号)まで取得しているが、誰もそんなものを真似しようとは思わないらしい。まして3200人の大ホールともなれば、プロセニアム(劇場で舞台と客席を隔てる額縁状の枠)の開口だけでも大変な大きさになる。
事実完成した作品は、縦10m×横24m、畳約150枚分の面積の超大作だった。画題の「天地創造」は三笠宮崇仁親王から直々に賜った。
残念ながらオペラハウスの計画は頓挫し、ステンドグラスは、現在は固定された形でKBS京都(許永中がらみの事件で有名になった地元の放送局)のホール壁面を飾っている。
当時彦之助はその大きさを評して、「作品に合わせて建物が出来たのは、自分のステンドグラスと、奈良の大仏くらいのものだ」と自慢していた。

お化け屋敷5

      

それに対して、エクステリア(外観)の方は古く見せる努力が必要だった。しかしそれはまんまと成功し、新築祝いの人たちがたどり着けなかったのは誤算だったとしても、お化け屋敷の称号を与えられ、今も太秦の街に異彩を放っている。
《京都・太秦広隆寺の近くにあるその家はうっそうとした木に隠れており、全貌がよく見えない。しかし、古い木の厚い扉を開けて中に入っていくと、細部にわたって趣向を凝らした家だというのが分かる。外壁は粗くデコラティブに塗られた漆喰で、柱や梁、筋交いは日本の伝統的なチョンナがけという工法でわざと凹凸をつけている。煙突や壁の一部、塀などにバランス良く張られているのは、焼きすぎのレンガで、それが建物に重厚感と面白さを与えている。西欧風の白い窓の周りだけピンク色のレンガで、全体の雰囲気を和らげているようだ。細かく彫られた羽目板など、ひとつひとつが芸術的で、しかも奇をてらったようないや味が感じられない。(中略)現在、ギャラリーとして公開している1階の床は大理石。これは船にあったわけではないが、職人が切り出す時に出る石の端材を見事にコラージュしている。焼きすぎレンガも京都の工場から出た廃材だ。材料にお金はかけないが、徹底的にこだわり、そうして探し出した?上質の廃材?を職人の技で見事に生かしたのが、この家の特徴なのである。(中略)建築当時、彦之助氏は10数名の大工さんの現場監督を務めていたが、全体が単調にならずデコラティブに仕上がるように、ある一定の時間を過ぎると1日の仕事を終わらせたそうだ。》(ウッディーライフ:山と渓谷社より)

建物の話はひとまず置くことにして、ここからはお化け屋敷の主(父=徳力彦之助)の話をしよう。
子供の頃私が父と連れだって歩いていると、きまって「お孫さんですか」と声をかけられた。
本人はそう言われることをどう思っていたのか聞かされたことはないが、私が生まれた1961(昭和三十六)年に、彦之助はすでに56歳だった。それを聞いて希望が湧いてきたという方のために付け加えると、私の弟はその約4年後に生まれている。
彦之助は芸術家だった(家庭訪問の父親の職業欄に、自由業と書いてえらく怒られたことがあった)。
《私は一体、何だろう?と、時々自嘲めいた気持ちが、いたずらっぽく脳裏をかすめる。自分は芸術家であることを生涯の誉りとして居る。しかし、世間一般の芸術家の行き方と少し違って居るようである。オール・プラスチックの家を建てたり、巾七十米もあるモザイク壁画を造ったり、畳百二十畳もあるステンド・グラスを造ったりしたのでは、どこの美術団体も、受け入れてはくれないのである。かと思うと、落雁(菓子)の歴史を書いたり、今度の銅鐸の研究なども、私に云わせれば、芸術活動の一環なのである。画筆一本に全生涯を打込んで居る作家とは、凡そ種類の違う芸術家であることは、自分でも認めて居る。しかし、こういう種類の芸術家も、世の中には沢山居る。例えばブルネレスキやギベルティ、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチなど、みな私と同じ仲間である。何でもやると云うと、日本では器用貧乏と人は笑う。しかし芸術家が画筆一本だけしか持ってないと云うのは、画描き職人の云うことで、芸術家の研ぎ澄まされた直感力と云うものは、他のジャンルの人の眼とは、また異ったものの見方をするものである。と云うことを知って頂きたいのである。》(銅鐸は生きている:白川書院より)
他の人の眼とは異なったものの見方をするばかりに、彼の主張が一般的に受け入れられないということが往々にして起こったが、お化け屋敷のエピソードからも分かるように、彼の眼は常に物事の奥底に潜んでいる、本質あるいは真実といったものを見事にとらえていた。
次回以降は、彦之助がどのような芸術家であったのかを知るために、彼の代表作の一つであるステンドグラス「天地創造」と、その制作期間中に裏作として執筆された「銅鐸は生きている」という著作の中から、「梵鐘の考察」について書いていくことにする。

お化け屋敷4

      

実は、その家は建築当初から古かった。
どのくらい古かったのかと言えば、新築祝いにやって来た人たちが、見過ごしてその前を通り過ぎてしまう程だった。
〈新しいものはすぐに廃れてしまう。しかし最初から古いものなら、いつまでもその印象は変わらない〉というのがお化け屋敷の設計コンセプトだった。
かくして文化住宅と呼ばれる、今にしてみればどこが文化的なのかよく分からない新築の住宅が建ち並び初めた昭和十年代の太秦村に、英国チューダー式(本格的なチューダー様式ではなく、漆喰の壁に木組みを露出させた田舎屋風木造建築)の洋館が忽然と出現した。
ただしこの洋館、スタイルのみが英国風で中身は国産という、神戸異人館様式の建築ともまた違っていた。
インテリアには正真正銘イギリスの、しかも200年以上前の建材が使用されている。
その幸運は船によってもたらされた。
新しい家を計画していた頃、神戸港に一隻の英国客船が入港した。そして老朽化のためか、その船はそこで廃船処分となってしまう。1937(昭和十二)年といえば日中戦争の勃発した年である。その数年前に船は解体され、鉄その他の金属類は軍事物資として日本軍に払い下げられた。
ところが残った船の内装材(建具、床材、階段の手摺等)は、それが建築的に非常に価値が高いものであるにもかかわらず、誰も買い手がつかないまま倉庫に積み上げられてしまった。
買い手がつかなかった理由は、英国スケール(フィート・インチ)で作られた建材が日本の住宅の寸法(尺貫法)に合わなかったからという単純なものだった。
そのことをどこからか聞きつけた私の父が、大阪の波止場で眠っていたこれらの建材を二束三文でゆずり受けてきたところから、太秦の洋館建築はスタートする。
私がその家に生まれてすでに50年、竣工から数えると70年余りが経過しているが、200年以上も前に作られたヨーロッパの(上質の材料をふんだんに用い、職人が端正を傾けた)インテリアは、設計コンセプトのとおり、年月を経て情報産業全盛の現代になっても、古くさくなるどころか、よりいっそう輝きを放つようになっている。