言葉に非ず





「私にはそれよりも、ボッティチェルリの芸術的な心情が本能的に行なっている事柄に学者たちが自身の学識を投影し、彼を材料にして全く別個の存在をつくり出しているように思われる。(中略)なるほどボッティチェルリは、学問的な探求欲を誘発されるに足る文学性を具えていたかもしれない。だが彼は何よりもまず芸術家であり、奔放な空想や創意に溢れていたことも忘れてはならない。こつこつと手堅くやる歴史研究では、画家の側のどんなむら気も放置しておくわけにいかない。絵に出てくるすべての顔の身元確認がなされねばならず、あらゆる恣態と状況には、文献との照合が付与されなければならない。結果としてボッティチェルリに関する記述は、彼の芸術とほとんど関りのない照合と引用に満たされて、読むのが重荷となる。ボッティチェルリについての学問的著作は、あまりに博学的な雰囲気を彼に与えている。だが彼は自身の作品のゆえに、芸術家であった。」(矢代幸雄著、吉川逸治、摩寿意善郎他訳 『サンドロ・ボッティチェルリ』 1977 岩波書店より)


お馴染みとなった矢代先生の言葉で、私が「春」を解き明かすにあたって、拠り所としたものの1つです。
ボッティチェリの絵を読み解くのに必要なことは、何よりもまず彼を知ることです。
ところが、彼を知る手立ては多くはありません。代表格はヴァザーリですが、それとてどこまで信じて良いのかは疑問です。
理由は簡単。ボッティチェリはレオナルドのように言葉を(一切)残していないのです。
しかし、ひるがえって考えれば、そのこと自体が画家を知る上での重要な手掛かりとなります。つまり、彼は言葉を必要としない〜言葉から解き放たれた〜芸術家だったのです。「神秘の降誕(図版は部分)」は例外中の例外でしょうか。


この辺りを歴史家(美術史家)たちは勘違いしていると思います。
ここでは詳しいことは書きませんが、彼は物語を絵画にすることを好むタイプの画家でした。
物語ももとを正せば言葉で書かれていますが、私が言いたいのは、特定の文章とかではなく、全体の印象という意味です。したがって、画面と文献を照合する作業は不毛であると言わざるを得ません。


すでに解答を与えた通り、「春」のテキストは「エロスとプシュケ」です。
このことは、「春」が物語の特定の部分の描写だという意味ではありません。
絵描きが(人から聞いたのか、自ら読んだのかは不明ですが)物語全体から受けたイメージが最初にあって、それを自身の中で消化し、自らが伝えたいメッセージとして再編集した映像が、「春」という絵に定着している、ということなのです。


絵を読み解くのに必要なことは、画家の気持ちになって考えることです。そうすることによってのみ、彼のメッセージを受け取ることが可能となります。
(snow)